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マリリン・モンロー Marilyin Monroe

「一輪の赤いバラ」〜マリリン・モンローが遺したもの

上書きされた水彩画の献辞

今年(2005年)6月、マリリン・モンローの遺品およそ300点がロサンゼルスで競売にかけられた。

競売を企画したジュリアンズ・オークション社によれば、出品されたのはマリリンが映画撮影で使用したドレス、亡くなった際に残されていた化粧品、ベルト、スカーフ、ネックレス、スキーのストック、木のハンガー、クッション、サイン付きポートレイトなど。黒のストラップレスブラなど下着まで出品され、ひとつ数百ドルから数万ドルで落札された。

そんななか、目玉商品といわれたのが1962年、マリリンが当時のケネディ大統領のために描いたという「一輪の赤いバラの水彩画」だった。こちらはロードアイランド州の美術商によって7万8000ドル(約840万円)で落札された。 当初、この水彩画に寄せられた献辞は「ケネディ大統領、誕生日おめでとう」だったが、後に「マリリン・モンロー、誕生日おめでとう」と上書きされたという。

3回の結婚と幾多の恋愛

1926年6月1日、マリリンはアメリカ・ロサンジェルスで生まれた。本名はノーマ・ジーン・ベイカー。母親は精神が不安定で入退院を繰り返していたため、彼女は里親のもとを転々として育った。孤児の施設で過ごした時期もあり、その建物の窓から望む丘の側面には「HOLLYWOOD」の文字がそびえ立っていた。

彼女は無名時代も含めて3回結婚している。最初の相手は工場で働くジム・ドハティという青年。ところがこの結婚は4年で幕を閉じ、彼女はモデルの仕事を開始。20世紀フォックス映画社のスクリーン・テストに合格し、週給125ドルで女優デビューした後は芸名をマリリン・モンローとし、褐色の髪をブロンドに染めあげた。

50年、「アスファルト・ジャングル」「イヴの総て」で印象に残る役を演じ、52年には「ノックは無用」で初の主役を獲得。53年、「ナイアガラ」では“モンロー・ウォーク”が大きな話題を呼び、その後、「紳士は金髪がお好き」「百万長者と結婚する方法」と立て続けにヒットを飛ばす。

大リーグのスーパースター、ジョー・ディマジオとの結婚は、その翌年、54年のこと。ただしこの結婚は1年ともたなかった。「七年目の浮気」でスカートがまくれるシーンを撮影した際、ジョーは嫉妬で怒り狂い、離婚の一因になったという。しかしその半年前、日本に新婚旅行でやって来たときには涙で目を腫らしたマリリンの姿が目撃されており、すでに二人の間には亀裂が生じていたようだ。

後世に遺された不朽の名作

その2年後の56年、マリリンは劇作家・アーサー・ミラーと結婚する。ようやく幸せをつかんだかように見えたが、その後、二度の流産を経験。深く傷ついた彼女は睡眠薬を乱用し始め、次第に精神が不安定になっていき、死去する1年前にはミラーとも離婚。

この三人以外にも、マリリンと浮名を流した男性は数知れない。フランク・シナトラ、イブ・モンタン、トルーマン・カポーティ、チャーリー・チャップリン・ジュニア…… そして前述のケネディ大統領。多くの男たちがマリリンに恋をして、そして通り過ぎていった。

マリリンが36歳の若さで亡くなったのは1962年8月4日。全裸で、電話機を握り締めたままの姿で。

結局、赤いバラの水彩画はケネディ大統領に贈られることはなかった。
彼女の死には数多くの謎が残され、いまだ陰謀説もささやかれ続けている。
上書きされた献辞のように、事実は塗り替えられ、私たちはそれを知ることはできないかもしれない。

ただ彼女の描いた一輪のバラのように、艶やかに光り輝いていたマリリン・モンローという女性の姿を、幸せを求めてひたむきに生きたその証を作品の中に見出し、そっと思いを馳せることはできるだろう。

フィルモグラフィー

「イブの総て」1950年
「紳士は金髪がお好き」1950年
「ノックは無用」1952年
「モンキー・ビジネス」1952年
「ナイアガラ」1953年
「百万長者と結婚する方法」1953年
「ショウほど素敵な商売はない」1954年
「七年目の浮気」1955年
「バス停留所」1956年
「お熱いのがお好き」1959年
「恋をしましょう」1960年
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