
新たな「美女の定義」を築いたオードリー
「世界の恋人」「世紀の妖精」と慕われたオードリー・ヘプバーンが亡くなって12年の歳月が流れた。しかし、チャーミングな彼女の姿はいまだ世界の至るところで健在だ。一昨年、米郵政公社は人気記念切手シリーズ「レジェンズ・オブ・ハリウッド」(ハリウッドの伝説)の第9弾としてオードリーの切手を発売した。日本でも数年に一回の頻度で、彼女の写真展が催されている。某クレジット・カードのデザインには彼女の顔写真が起用され、田村正和がオードリーに話しかけるCMが話題になった。
そして二十数本に及ぶ彼女の主演作品を紐解けば、私たちはいつでも、はつらつとした表情の彼女に出会うことができる。
1929年、ベルギーに生まれた彼女は両親の離婚を経験し、ナチス・ドイツの占領下のオランダで貧しい少女時代を過ごした。彼女は「アンネの日記」を残して収容所で亡くなったアンネ・フランクと同い年であり、戦時中は食べ物が手に入らず、極度の栄養失調で餓死寸前にまで陥った。オランダ解放後、そんな彼女の前に現れたのが人々に食糧や医薬品、衣服を配給した赤十字とユニセフの前身組織だった。「子供の頃からユニセフと縁があったのね」と彼女は後に語っている。
1951年、「モンテカルロ・ベイビー」の撮影が行われたリヴィエラで、オードリーはフランスの女流作家・コレットと運命的な出会いをする。「ジジを見つけたわ!」 自作の芝居「ジジ」(1951年)の制作準備中だったコレットはオードリーを見た瞬間、目が離せなくなったという。
こうしてイギリス映画の端役からブロードウェイ公演「ジジ」の主役に抜擢された彼女だが、それがまた、新作「ローマの休日」(1953年)のヒロイン役を探していたウィリアム・ワイラー監督の目に留まり、そしてハリウッド映画に初出演にして「アカデミー賞主演女優賞受賞」という歴史的な快挙を成し遂げることとなる。
彼らの目を惹いたのはオードリーの利発な顔立ち、そして凛とした立ち姿だったのだろうか。彼女は細長い首から肩にかけての緩やかなラインやキュッと引き締まったウエスト、スラリと真っ直ぐ伸びた足などが特に美しいと評される。それは幼い頃からバレエで鍛え上げてきた努力の賜物だと推測されるが、オードリーの登場以来、ハリウッドには従来の「ブロンド&グラマー」と対照的に、「スレンダー」という新たな美女の定義も根付いていった。
内なる喜びのダンス、憂いをもった歌声
また、オードリーといえば、そのシンプルで洗練されたファッションやヘアスタイルが取り沙汰されることが多い。
「麗しのサブリナ」(1954年)の「サブリナパンツ」はもはやファッション用語のひとつとなり、「パリの恋人」(1957年)はFUNNY FACE≠ニいう原題が流行語になると同時に、オードリーの華麗な七変化が話題になった。この映画を観て、ファッションデザイナーを目指す人も続出したという。
ただしご存知のとおり、彼女の魅力はそうした外見ばかりではない。たとえば、同作品では水を得た魚のように軽やかに高く舞い踊るオードリーの「ダンス」が堪能できる。単なる技術だけでなく、内なる喜びを踊ることで表現する力を備えていた。
また、彼女の「歌声」には独特の味わいがあった。
「すばらしい歌は歌詞だけではなく、曲も大切だわ」
若かりし頃のオードリーは幼い息子にこう教えていたという。その言葉は「ティファニーで朝食を」(1961年)のなかで、彼女が
非常階段に腰かけて歌う「ムーン・リヴァー」に色濃く出ている。声量には恵まれず、「マイ・フェア・レディ」(1964年)ではマルニー・ニクソンが吹き替えをおこなったが、彼女の歌声にはいつも憂いをおびた雰囲気があり、何より聴く人の心に染み入る美しさがあった。オードリー主演映画の多くのサウンドトラックを担当し、名曲を数々提供したヘンリー・マンシーニは新聞記事のなかで、「「ムーン・リヴァー」は彼女のために書いた歌。いまでは1000以上のバージョンで歌われているが、彼女ほど歌を理解し感情をこめて歌った人はいない」とコメントしている。
演技力については、ゲーリー・クーパーやケーリー・グラントら往年のスター男優と堂々と渡り合っていたにも関わらず、過小評価されがちな女優の一人かもしれない。
「昼下がりの情事」(1957年)のラストシーンでは、口では強がりを言いながら、迫りゆく別れに悲しみを滲ませる女性の姿を見事に演じきっている。「暗くなるまで待って」(1967年)では目の不自由な人妻になりきり、じわじわと忍び寄る恐怖を観客にも伝染させる。ある夫婦の恋愛時代から結婚生活まで6つの時代をフラッシュバックで見せていく「いつも2人で」(同年)にも注目したい。同じ喧嘩でも、二人がその時期にどんな関係にあるのか、オードリーの表情や立ち振舞い、細やかな仕草から推理して楽しむことができる。
63年9ヶ月の実り多き人生
晩年のオードリーは慎ましい生活を好み、スイスの豊かな自然が望めるジュネーヴ湖近辺に家族と移り住み、色とりどりの花と緑に囲まれた穏やかな日々を過ごしていた。
ユニセフの親善大使に就任した当初は、大女優・オードリーということで、「名ばかりの名誉職」との冷ややかな見方もあったようだが、彼女は就任後わずか一週間のうちに、飢えと内戦で荒廃するエチオピアに飛び立っている。さらにアジア、アフリカの難民キャンプを次々と訪問し、飢えた子供たちを抱きしめた。彼女は自ら広告塔となることで、その知名度を最大限に生かし、こうした地域に世界が注目するように努力を続けた。同じ頃、国際連合加盟国に「GNP1%を途上国開発基金にあてよう」と呼びかけた声明文も発表している。
1993年1月、彼女はガンのため家族に見守られながら息を引き取った。いまなお63年9ヶ月で人生の幕を閉じた彼女の生涯を惜しむ声は絶えない。
しかしながらハリウッド女優のなかで、彼女ほど豊潤な人生を歩んだ人は稀だったのではないか。オードリーが世界中の人から愛される理由はその無条件に人を愛する姿勢と生き方、魂の美しさにあるのかもしれない。 |