結核が人生の道筋を大きく変えることに。
「遊びしかない人生」は病気が生み出したものだった
病気が未来を曲げてしまった
いくつもの趣味を長く楽しんでこられた作家の伊藤礼センセイ。ですが、ただ気楽に打ち込んできたというわけではありません。そこには、複雑な胸の内があったようです。
「まあ…暇だったんですね。肺病をやっているから、堅気の生活はもうできないと思っていたんです」結核を患ったのは、昭和28年。伊藤センセイはそのとき20歳、大学3年生でした。朝、新聞を読んでいると痰が詰まったような不自然な感じがし、その直後、喀血。センセイが母を呼ぶと、母は「そのときのあなたの声で、来るべきものが来たとわかった」と語ったそうです。
伊藤センセイの両親双方に、すでに結核で亡くなった親類が何人もいたため、息子もいつか発病するのではと心配していたのでした。センセイは結核になることを、「人生がすべて変わってしまうこと」と言います。
「あの頃は、ちょうど戦後の復興期が始まって、日本の景気がよくなるところでした。そこでなんとかうまく世の中に乗り出して行きたいと思って、大学に入って、あとはなんとか卒業するだけだと思っていたのに…。結核で、すべてが終わってしまうわけね。だから僕の20歳からの54年間は、右へ進むはずだった人生が左に進んでしまった、そんな感じです」不治の病とされていた結核でしたが、伊藤センセイが患う少し前に新薬が発売され、死に至る確率は急速に減っていました。
療養所には、同じ一橋大の学生が2人いたそうですが、1人は新聞記者に、もう1人は林業会社に就職しました。センセイいわく、「新聞記者になれた彼は、少し足踏みはしたけれど、行くべき道を行きました。もう1人は今でこそ大会社になりましたが、彼が入社した頃はまだ小さくて、泣く泣くそこへ行ったんです」。
遊びと病気だけの人生?
当のセンセイはというと、療養所に入り、大学を2年間休学。肺病の最中は、1年が過ぎるのが非常に長かったと振り返ります。結局、大学は9年かかって卒業しました。
「なしくずしの卒業でした。大学は8年までしかいられなかったので、僕は8年目に卒業は嫌だよと言ったら、母が大学に掛け合ったのだと思う。うちの子は長いこと結核で、今年卒業したかったけどまだ具合が悪くて、頼むからもう1年…って」
また、そこには水面下で親子の闘い(?)もありました。「父は同じ大学でしたが、たまたま卒業間際に単位が1つ足りなくて、面倒臭いから中退したのね。中退ってのは、しゃれてるのよ。父自身が、佐藤春夫はどうだったとか20人くらいの名前を挙げて言ってたんですから。だから僕もね、大学なんて入るのはいいけれど卒業したらダメなんだって信念をもっていたんだけど、母に泣かれてね」
20歳のときに結核を患っていなければ、伊藤センセイの大学卒業後の人生は、どんなふうに進んでいたのでしょう。病気が人生の道筋に大きな影を落としたのは疑いようのない事実です。最初の趣味となった鉄砲撃ちなど、20歳までのセンセイにとっては考えも及ばなかった世界だったのではないでしょうか。
センセイは考えます、あと5〜6年早く生まれていたらと。結核にかかっていたら特効薬がない頃ですから死んでいただろうし、さもなくば兵隊に取られていたでしょう。だから、しみじみ思います。「不思議なことですよね、生まれて生きているってね」。
「今74歳で、もう少しすると、そこで私の人生が終わるわけなんです。しきりに振り返ると、私、遊びと病気以外なんにもしてこなかったという気がしてます。いったい、自分の人生に何が起こったんだろうと思っているの。世の中の人は私がしてきたようなことを『遊び』と名づけるようだけれど、いったい何だったのか…。この頃、なんだかわからなくなってきたんです」
遊び以外何もしなかった人生。
人はそう聞けば、なんと素晴らしいとため息を漏らすでしょう。しかし伊藤センセイにとっては、遊びをすることで病気と向き合うしかなかったのかもしれません。
最終回では、趣味に生きたセンセイの人生に、もう少しだけ触れることにいたしましょう。
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