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小津安二郎、黒澤明と並び、日本を代表する映画監督として世界中に多くのファンを持つ溝口健二。その才能は、『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』で3年連続ヴェネツィア国際映画祭受賞を経験したことでも証明済みです。 今年は溝口生誕110年。知られざる意外なエピソードも交え、映画評論家の品田雄吉さんが、溝口映画の魅力を語ります。
溝口健二は、小津安二郎や黒澤明と並ぶ世界的な名監督である。まず、『西鶴一代女』(52年)や『雨月物語』(53年)がヴェネツィア国際映画祭で受賞してヨーロッパで注目を浴び、やがて彼に対する高い評価が世界に広まっていった。彼は、日本国内でも巨匠として高い評価を得ていた。 ところで、溝口監督は1956年に世を去っている。生年は1898年である。享年58歳。以前から思っていたのだが、何と言う若さだろうか。小津安二郎監督は、1903年に生まれ、1963年、60歳の誕生日に亡くなった。これも若い。彼らは、きわめて若い時期に巨匠となり、世界に強い影響を与える名作を作り上げていたのである。 溝口監督が『西鶴一代女』を作ったとき、まだ54歳だった。今後「松竹ONLINE」で配信予定の溝口作品6作中、もっとも古い作品は1936 年の『浪華悲歌』(なにわえれじい)で、この作品を監督したとき、溝口は38歳だった。当時、映画は、若い才能たちの活躍の場だった。つまり、映画そのものが若かったということなのでもあるのだろう。
今年96歳になった新藤兼人監督は、新作の『石内尋常高等小学校 花は散れども』を完成した。現役最高齢の映画作家である。その新藤監督はかつて、溝口監督を師と仰ぎ、脚本家としての修業に打ち込んだ時期があった。その新藤監督から直接伺った話を少しご紹介しておこう。 映画監督になりたかった新藤青年は、1934年、つてを頼って京都にあった新興キネマ撮影所に入社した。が、監督部には入れてもらえず、始めは現像部の仕事だった。次いで美術部に移った。1937年、溝口健二監督が新興キネマ撮影所で『愛怨峡』を監督することになった。これは好評だった『祇園の姉妹』(36年)に続く作品で、美術部の一員として現場に参加した新藤兼人は、溝口監督がどのような仕事ぶりをするのか、ひそかに胸を躍らせながら見守ったという。 しかし、溝口監督は、ディレクターズ・チェアに腰かけて考えこんだまま、何も指示を出さない。スタッフ一同は指示を待ち続ける。 結局、何もしないままお昼になってしまった。新藤青年は痺れを切らして、名高い溝口監督に対する尊敬の念がいつの間にか薄れていった、と言う。しかし、映画が出来上がったとき、新藤青年はその見事な出来栄えに圧倒された。そして、溝口監督を生涯の師と仰ぐことに決めたのだった…。
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品田雄吉(しなだ・ゆうきち)1930年北海道生まれ。北海道大学卒業後、「キネマ旬報」編集部入社。「映画旬刊」「映画評論」編集部勤務を経て、65年よりフリーの評論活動に入る。89年より多摩美術大学教授を務め、00年より名誉教授。第19回東京国際映画祭では審査委員長を務めるなど、我が国を代表する映画評論家。主な著書に、「監督のいる風景」「銀幕の恋人たち」「ビデオで観る100本の邦画」など。 |