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わが芸を見かへることは打ち忘れ 人の曇りを言ふぞおかしき
初代本因坊算砂(1559−1623)を今日では「ほんいんぼう さんさ」と読みますが、江戸時代の正しい呼び方は「ほんにんぼう さんしゃ」でした。
算砂は「碁之狂歌」と「将棋之狂歌」をいずれも十一首ずつ書き残しています。
冒頭の歌は「碁之狂歌」の中の一首。
碁のみならず将棋にも算砂は秀でていたと伝わり、「坐隠談叢」(手元史料は平凡社版、昭和7年発行)「列伝」では冒頭「本因坊第一世算砂」項に、「我が碁、将棋所の開祖算砂」とあります。ただし、「談叢」の記述が信頼に足るものでないことは前回述べたとおりです。
算砂は法華宗(日蓮宗)寂光寺の僧、日海。信長、秀吉、家康と三代の天下人に仕えた碁の名人として、囲碁界では有名です。
秀吉、家康が碁を好んだことは幾多の史料から明らかですが、算砂が信長に碁を教えたということも、信長が碁を打ったという話も、歴史の信頼できる文献にはまったくありません。 ただ一つ、少なくとも一度、算砂は信長に会ったことがあると確認できるのみです(私は京都寂光寺で史料を見ました)。そのとき信長が招いたのは碁の名手・日海だったのか、法華僧としての日海だったか。
後者、寂光寺二世の日海を信長が招いたと考えるのが自然です。というのは、日海が8歳で入門したという寂光寺開基(一世)日淵(にちえん)は、信長に招かれて法華宗の講釈をしたことがあると信頼できる史料にあります。
将棋史における初代将棋所は一世大橋宗桂。算砂は一世宗桂と親しく、将棋の手合は平手(ひらて、互角のこと)だったと、囲碁史では伝えられています。
「初代宗桂は碁打ちの本因坊等と共に、慶長17(1612)年に幕府より扶持を支給されたが、これは一代限りで家禄ではなかった」と、将棋・囲碁史研究者の増川宏一が記しています(平凡社選書「碁打ち・将棋指しの江戸」1998)。 しかし「どういういきさつがあったのかは不明だが」(増川/洋泉社新書「将軍家「将棋指南役」」2005)、家禄は二世本因坊算悦、二世大橋宗古に受け継がれました。以来、本因坊家も大橋家(本家、分家、伊藤家に分かれる)も幕府の崩壊まで俸禄を受け続け、明治維新後も碁と将棋の家元として続きました。
本因坊家の文書は残っていませんが、大橋家に伝わる貴重な文書が30年ほど前に多数発見されました。それらに基づく新事実や新説を上記の二冊に増川が書いています。囲碁史にかかわる重要なことも少なくありません。
本能寺・三劫の話に関連するのは、大橋家文書の中に由緒書の控えが数多くあること。幕府で碁・将棋家を支配する寺社奉行が代わると、碁・将棋家は由緒書を提出することが度々あったらしい。寺社奉行は文書による引き継ぎがなく、碁・将棋家の由緒や前例について直接尋ねるので、「先祖から言い伝えられた」として将棋家の側は「真偽不明や明らかに誤りであることも巧妙に書き込んでいる」と増川は書いています(「将軍家「将軍指南役」」)。 (続く)
(2007年7月発表作品)
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