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もし…家康が碁・将棋を好まなかったとしたら、囲碁と将棋の発達は別の道を辿ったはずです。そして、20世紀後半から進展している世界的な囲碁の普及はおそらくなかったでしょう。
江戸幕府を開いた徳川家康は慶長10(1605)年に将軍職を二代秀忠に譲り、晩年を駿府(静岡)で過ごしました。元和2(1616)年に75(満73)歳で没し、遺言により久能山に埋葬。しかし翌年、久能山から日光へ遷葬されます。
朝廷が「東照大権現」の神号を勅許し、神として日光東照宮に祀られた家康は「神君家康公」「権現様」と呼ばれるようになりました。
秀忠が創建した日光東照宮を絢爛豪華に造り直したのは三代将軍家光です。建設に莫大な費用が投じられ、幕府の財政が悪化して行く端緒になりました。
家康は死の直前に算砂(一世本因坊)と宗桂(初代大橋宗桂、12代続いた大橋本家の歴代当主は8名が宗桂を名乗った)を駿府城に招いています。のちに、算砂は囲碁の初代名人、宗桂は将棋の一世名人と呼ばれるようになりました。
財政難から改革が断行されたこともあったとはいえ、江戸幕府の政治は諸事にわたり先例を重んじたといわれます。幕府の統治に必要とはいえない囲碁四家と将棋三家に家禄が支給され、それが幕末まで続いたのも、権現様に始まる先例に従ったものでした。
年に一回(1721年以降は11月17日)碁家・将棋家の当主たちが江戸城に登り、将軍、老中に囲碁・将棋の対局を披露した「御城碁(おしろご)」と「御城将棋」。碁・将棋家にとって最重要の行事で、家禄を得るための仕事はそれだけでした。
御城将棋と御城碁について当事者が記した貴重な史料があります。将棋大橋家、本家子孫の家に残っていた多数の文書(もんじょ)です。30年ほど前に発見された大橋家文書によって、それまでわからなかったことや、誤って伝えられてきたことが色々と明らかになりました。
そうしたことを将棋・囲碁史の研究で知られる増川宏一が詳しく記しています。
【1】「碁打ち・将棋指しの江戸」 平凡社選書 1998
【2】「将軍家「将棋指南役」」 洋泉社新書 2005
読んで私は確信を得ました。増川はふれていませんが、本能寺の変前夜のことと囲碁界に伝わる御前対局(算砂・利玄)三劫の話は、本因坊家による捏造に違いないと。
大橋家文書のなかで、寛政5(1793)年に寺社奉行へ提出した由緒書には、「従来にみられなかった記述が突然現れている」と増川が記しています。「たぶん、寛政の改革時に将棋家も統廃合されるかもしれないという危機感を抱いたのであろう。それで逆に格式のある伝統を強調するために、捏造したと考えられる」と増川。その由緒書はつぎのようなものです。
初代宗桂父子ともに織田信長公へ相い勤めまかりあり候ところ、将棋に秀でこれにより信長公より宗桂の名を下しおかれ候、その後は秀吉公へ宗桂相い勤めまかりあり候
(続く)
(2007年8月発表作品)
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