初代本因坊算砂は元和9(1623)年5月16日に没しました。数え65歳。寂光寺に墓があります。本能寺の変から41年の月日が過ぎていました。算砂が書き残したものに、変のことを窺わせるものはありません。日海(算砂)は本能寺に招かれ、信長の前で利玄(当時数え18歳)と碁を打ったのでしょうか?
信長に関する第一級の史料である『信長公記』にも、他の史料にも、変の前夜に御前で碁が打たれた可能性を思わせる記述はまったくありません。ではなぜ、碁界では「本能寺、三劫の話」が真実の如く述べられてきたのでしょう?
以下は推測ですが、根拠の一つは増川宏一の研究(連載3、4を参照)です。
徳川家康が碁・将棋を好み、御城碁・御城将棋の先例を作ったことによって、江戸幕府は囲碁四家・将棋三家に家禄を支給し続けました。しかし碁家・将棋家の地位は高くなく、登城の際の待遇改善を求める一方で、俸禄の削減を心配していたと思われます。そのため…
寺社奉行が交替の都度(文書の引継ぎなし)、碁方・将棋方の代表(碁所・将棋所、不在の時期は筆頭家)は新任奉行に由緒書をそれぞれ提出。そこに碁・将棋の伝統や先例を記して、待遇の維持さらには向上を求めたのでした。
先例の中で最も重きを為すのは家康が碁家・将棋家に禄を与えたことであり、知らぬ者のない話でした。さらに重みを増す由緒を書き加えるなら、第一に信長との関わりになります。
秀吉も碁を好み、家康より先に日海を取り立てました。しかし、算砂が最初に仕えた天下人が秀吉では具合が悪い。豊臣は徳川が滅ぼした敵ですから。
寂光寺の文書に日海が信長に会ったとあり、事実でしょう。そのとき招かれた理由は書かれていませんが、後の本因坊家当主らはそこを都合よく解釈。
碁家の権威を誇る話として、寺社奉行に対する由緒書あるいは口上に含めたのではないでしょうか。碁界書物で度々書かれてきた、つぎのような伝承です。
- 日海(算砂)は信長に碁の名手として褒められ、「名人」と言われた。
- 信長・秀吉・家康はいずれも算砂に対して五子の手合であった。
- 本能寺の変の前夜、信長の御前で碁を打ち、不思議にも三劫が出現。
- 寺に籠もり信長の法要を続けた日海は、秀吉の招きに応じなかった。
誰もが興味を覚える、本能寺の変前夜に三劫出現の話はよく知られています。林元美(1778-1864)が著した『爛柯堂棋話』、それを重要な資料として書かれた『坐隠談叢』(1904 安藤如意)によって広まりました。
それから百年、日本棋院をはじめ今でもこの話を取り上げることがあるのは、囲碁史を飾る恰好の話題だからでしょう。事の真偽は二の次にして。
算砂の辞世もよく知られています。これは本物です。
碁なりせば 劫など打ちて生くべきに 死ぬるばかりは 手もなかりけり
本テーマの連載はこれで終わります。良い年をお迎えください。
(続く)
(2007年12月発表作品)
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