|
琉球に仏教が伝わったのは13世紀後半(日本は鎌倉時代)。同時に禅僧が碁を琉球に伝えたのではないかと前回書きました。
琉球王府が1743年に編纂を始めた『球陽』という歴史書(琉球正史の一つ)があり、その附巻、尚豊王(在位1621-1640)の項に碁の名手の話が二つ記されています。その一つはつぎのような内容です。
中古の世に松千代謝名(じゃな)という者があり、囲碁を善くし、名を四境に馳せた。このころ京都に朴碩という者がいた。吾が碁は高く、本因坊に先で打つ、敵になる者はいないと。ついに謝名と相対することになり、朴碩はまったく勝てなかったと伝わる。
『比嘉春潮全集 第5巻』の「沖縄の囲碁の歴史」で記事を紹介した比嘉春潮(1883-1977 前回参照)は、「朴碩のことは能くは知らないが、本因坊とは一世名人の算砂で秀吉の時代である。そのころ首里王府の使者が秀吉に謁したことがあるから、松千代謝名は恐らくその従者の一人であったろう」と記しています。
現在までに発見された初代本因坊算砂の棋譜は32局と少なく、相手は利玄のみです。元和9(1623)年、算砂は弟子の中村道碩を名人に進め、算悦(13歳)の後見を頼んで没しました。利玄の弟子で林家一世となったのが門入。道碩-林門入の棋譜は1局伝わるだけですが、道碩-林朴入の棋譜は20局残っています。朴入については不明。「門入の別名を朴入といったのかもしれない」と福井正明九段の『囲碁古名人全集』(誠文堂新光社2007)にあります。
囲碁史に朴碩という名はなく、『球陽』にある朴碩は朴入(門入?)あるいは道碩の誤りではないかと思いました。しかし秀吉が琉球使を謁見した天正 17(1589)年に、両者の年齢は10歳未満。『球陽』の記事が事実で、比嘉の言うように秀吉の時代のことであるなら、朴碩という名の碁打ちが実在したのかもしれません。
もう一つの話は、琉球が薩摩に支配されるようになって20余年の後(尚豊王13年)。名手の世徳(津波古親雲上元重)が佐敷王子朝益に随行して京都へ行き、薩摩藩の家老が強いて勧め、二世本因坊算悦と対局、二子を置いたとあります。本因坊に碁を学び、囲碁の秘書を携えて帰国したと。
二つの話から、琉球の碁は日本式であったろうと思われます。自由布石の碁で腕を磨いたのでなければ、京都の一流棋士に先や二子で太刀打ちできないでしょう。それは、中国・清の琉球使節が記した報告書からも確かめられます。つぎは上記「沖縄の囲碁の歴史」より。
尚敬王7年(1719)渡来の冊封副使、徐葆光の『中山伝信録』には「碁局の高さ尺ばかり、脚三四寸、面の厚さ七八寸、極めて堅く重し、黒子は礫石を磨してつくり、白子は法螺貝の頂骨を磨して之をつくる。人皆碁を善くしこれを〈梧(ご)〉と謂う。碁をうつ時、四角黒白の勢子を用いず、局終わりて空白の多少を数え、実子を数えず」(※1)と、碁盤や打ち方のことまでも書いてある。
黒白を二子ずつタスキに置いて(事前置石)打ち始めるのは、20世紀初めまで続いた中国式です。昔はコミがなかったので、勝たんがためのマネ碁を防止する必要から中国で広まったのでしょう。
琉球では自由布石だったこと。勝敗を確認する計算も中国式(一方の石と地を数える)でなく、日本式の囲った地だけ数える碁だったことがわかります。こうしたことからも、琉球の碁は中国からでなく、大和から伝わり広まったと思われます。
(続く)
| ※1 |
香川忠夫『中国囲碁史料集成』p424に原文が採録されており、ほぼ同じ内容である。 |
(2008年4月発表作品)
|