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空港のベンチに座っていた人のなんとも落ち着かぬ様子に、心配して理由を尋ねると、こう答えたという。「いえ、身体が速く着いてしまったので、心が到着するのを待っているんです」 これは速すぎる飛行機の旅を揶揄した小話だが、反対に船旅では気持ちが先に上陸してしまい、気づくと身体はまだ波間ということにもなりかねない。陸、海、空、いろいろな乗り物を利用できる今日だが、どうも旅には心と身体を一緒に運ぶことができる適切な速さが必要なようだ。理想をいえば、芭蕉のように片雲に誘われて旅立ち、どこかの細道で人情に触れながら行脚するのがよいのだが、せっかちな現代のわたしたちには時間的になんとも贅沢すぎる。 やはり汽車旅だろう。速さが旅に向いているのである。といっても、新幹線の時速300kmは、一時でも早く想う人に会うには良い速さだが、高い防音壁が車窓の邪魔をするし、流れる車窓が速すぎて景色を目で追うことができない。経験からいうと、在来線がもつ時速100kmが旅心と同調するようだ。
その速さをもつ汽車旅に最適な列車がある。ブルートレイン。夜をくぐり抜けていくことと、その車体の色からブルートレインという愛称で呼ばれる寝台設備つきの長距離列車だ。 現在、ブルートレインが走る路線は、東京と大阪を起点にして北と西を結んでいる。四国へ向かう列車は大河をいくつも超えて瀬戸大橋で海を渡り、九州へは関門海峡をトンネルで抜ける。また山陰へ足を伸ばす列車は、中国山地を横断して荒海の日本海へ。北海道へは奥羽山脈に沿う山線と日本海の海岸沿いを行く海線の2路線があるが、ともに青函トンネルで海底を潜り北の大地に上陸する。 それぞれの車窓からは、日本独自の複雑な地形に美しい四季や生活の表情が絡みあい、ため息の出るような濃密な風景が展開する。さらに夕陽と朝陽が作り出す優雅な色調までも享受する贅沢は、ブルートレインならではだ。
また最近では列車とは思えない豪華な設備を備えた「トワイライト」「カシオペア」が登場して、いままでとはまったく異なる列車の旅が出現した。かつては寝台列車の旅というと、旅愁ともいえる感傷的な想いが旅立ちのホームや車内のどこかに漂っていた。しかし、新しく豪華な列車の中は、北へ向かう感傷よりも旅へ期待感で充満している
それはきっと目的地へ行くことよりも、その列車に乗ること自体が旅の目的になったからだろう。機会があるたびに、豪華列車の内外を見つめているが、他の列車と比べて乗客の風情が明らかにちがうのだ。出発すると途端に表情が柔和になるのである。たんに列車に乗り込んだ安堵というのでなく、いい旅が与えてくれる昂揚感がそうさせるのか、それとも一夜の夢を託した長距離列車がそうさせるのだろうか。 ある時乗車した「トワイライト」では、初老の夫婦はロビーカーの広い窓枠を額縁にして飽きずに日本海の車窓を眺めていたし、若いカップルは夕陽を浴びながらワインを手にフランス料理をゆっくりと楽しんでいた。旅の熟練者らしい中年の男性は持ち込んだウイスキーを傍らに軽い寝息を立てていた。それぞれの乗客が、それぞれの旅の中にいた。 おだやかに時が過ぎていく旅列車の中で、わたし自身も、いつの間にか北行きの旅人になっていた。 |
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